葦田不見(Ashida Mizu)

詩をかきます。言葉をつむぎます。エッセイとか日記とか。

タチバナ

言葉はわたしたちの世界であり、思考そのものであるという点で、安い言葉に安んじる人は安い人間と言ってもいいのかもしれない。

ここでは私が好かない人たちをただ安いと言ったけれども、それはあくまでも私の価値判断で、その人たちからしたら私も安く見えているのだと思う。

さて、早速矛盾するようであるが、できれば私は価値の評価をしたくない。されたくない。

価値判断をすること。次元を下げること。微分すること。
星々を一枚の紙に表現すること。
わかった気になるが、わかっては、いない。
空、無限の星たちの泳ぐあの場所を一枚の膜、寝床から見上げる蚊帳のようなものだと思ってしまうが、アイツとアイツとは遠く隔たっている。私たちがいるのは厚みを持ったクッションの中だ。

空が膜に見える人は膜の世界で、クッションに見える人はクッション世界で、それぞれ生きています。

膜の質感、クッションの内容物、それもまた各々の言葉だ。

ある人には糸しか見えません。かっこいいことではないような気がする。人の美醜、を評価、するのによく使われる言葉を借りれば、かわいい。かわいそうとかわいいは似ている。

漢字にすれば可哀想と可愛い、哀しく想えるのと愛らしく思えるのと、似ているのは日本語の先輩たちの息吹。これらは私の言葉。

私の「私」は所有性を誇りたいがためではない。
個別性を語りたいだけです。
個人的にはこう思う、と言っているんだと思ってください。

自分を大切に思える心は大切かもしれないが、立派なトロフィーは埃を被るものです。

私にはそれが埃に見えるが、それを名声と誇る人もいる。
罵声も嬌声。

人の尺度を丁寧にぶち壊すほど私はやさしくないけれども、他人を私の尺度に落とし込まない程度にはやさしくありたい。

読んで感じて、最後には死ねばいい。
やさしい暴力と、異人間交流と。

ありがとうございました。

アイ(ワナ)ビー

 

詩です。

 

 

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アイビー / 葦田不見 

 

 

私の心臓を蔦が破った。

 

左心房の揺りかごでエイトビートを子守唄に眠っていたのだ。蔦はずっとこの時を待っていたのだ。
一度破ってしまえばもうなんてことはない。身体中にその無数の腕をのばす。

 

(錠剤)を求めて伸びる蔦。何の(錠剤)だっていい。
心臓を破ったら蔦は、次に血管に絡みついて全身へと伸びていく。
そのさまはまるで快感物質が駆け巡るよう。

 

いつか左腕一面に咲いた蔦の花、今は枯れている彼女の花言葉は「死んでも離れない。」

 

寄生虫のように。死体に湧く蛆虫のように。

 

そう、絡みついて腕が動かない。この腕は彼女のものなのだ。

 

 

この厄介な蔦を断つ方法は知っている。

蔦は血管に絡みついているんだもの。

芽だって親指と人差し指の腹で可愛がってやればいい。

 

ああ、芽を摘んで蔦を切り払ってやりたい。

ジャングルの奥地へ進む開拓者さながらに。

 

でも切れない。切りたいのにナイフを握っているのに切り払えない。この懊悩。

芽を断ったら鬼が来るの。私は知っている。

 

繁みから今か今かと時期を伺う両の目を。

(お前にはあの血走った赤真珠が見えないのか。)

 

鬼が怖い。また私を連れ去る。


次は戻れない。

 

サンカクスイ

皆で隣人の首に手をあてる。

手首、手、首、手首、手、首、
手首、手、首、手首、手、首、
手首、手、首、手首、手、首、

仲間はずれはいません。

手首、手、首、手首、手、首、
手首、手、首、手首、手、首、
手首、手、首、手首、手、首、

一周回りました。
誰かが指に力を込めます。
同じ分だけ、いや、自分が感じた分に、1億分の1を掛けて、隣人も指に力を込めます。

手首、手、       首、
手首、手、首、手首、手、首、
手首、手、首、手首、手、首、

誰かが消えたらその分詰めます。

手首、手、首、手首、手、首、
手首、手、首、手首、手、首、
手首、手、首、

フム。

手首、首、手、手、首、手首、
首、首、手、手首、手首、

アレ…………?

首、首、手、手首、手首、

何かがおかしい。

首、首、首、首、首、首、首、首、
首、首、首、首、首、首、首、首、
首、首、首、首、首、首、首、首、
首、首、首、首、首、首、首、首、

コイヲイタス

忘れられぬ、ある夜の話。

恋を致すと書いて、コイタスといいます。



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「致恋」


孤独者と孤独者が互いの傷を慰めあう夜であった。

他者との破れ目、その凹凸を舐め、撫で、「何故?」って。


二匹の狼は、雨の中濡れながら雨避けを探した。

一匹目の既に閉じきった傷が一瞬開き、一瞬開いたちょうどその部分にその分だけもう一匹が溶け込み、はたまた二匹目が閉じきった傷を少し開くと、一匹目がそこに溶け込むといったことを何十分、何時間と繰り返していた。

そんなことを繰り返しているうちに、だんだん輪郭が消えていって、傷が一つになって、磨耗して、凸凹もなくなって、毛が抜けて、裸の狼になってしまった。


一匹はひたすらにもう一匹をひたすらに噛んだ。
痛みも噛む悦びも二匹だけのもの。
一匹はまたもう一匹を優しくくすぐった。
くすぐったさも表面をなぞる感覚も二匹だけのもの。

いや、元二匹のもの。今は一匹のもの。
もう孤独ではない。


もう…。


もう……。





あぁ、日が昇る。
太陽はいつも残酷で、輪郭を丁寧すぎるほどになぞりあげる。地平線が二者を別つ。空と海。白日は混ざることを許さない。許さない。


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カラストサカナ

私は川を歩いていた。
サンダルの裏で石とヌメりを感じ、指で水の手触りを確かめながら、冷たさをなぞる。

土が集まって盛り上がり、干上がっている部分。そこには鴉がいて、その足で死んだ魚は押さえつけられている。魚の躯は鴉と同じくらいあって、まだそれほど腐ってはいない。鱗も光を携えている。


彼らに近づいてみた。
当然、鴉は自分の身ほどもある魚を携えて飛ぶことはできず、逃げていく。
ばさん ぱたぱた ばさんばさん……

魚を覗いてみたが、目が合わない。
そもそも合わせるだけの、目がない。
視線が合わないのではなく、目がない。
そこには目がない。

きっと鱗は硬いのだ、嘴で剥ぐことはできず、身をついばめない。
一番柔らかいところ、目。
そこからほじくりかえしてあの鴉は喰おうとしていたのだ。


刺身を食べていては気づかない。
そのかたさ、やわらかさ。
自然のあまりにも自然すぎるその自然さ。


私は魚の目があったところに、その目に吸い込まれそうになった。

ニューオニオン

新玉ねぎをいただいた。

いつか私を、剥いても剥いても芯に辿りつけない玉ねぎ、と形容した友人を思い出す。

「芯を求めて剥いているうちに、気づけばすべてなくなってしまう。」


土を手で拭って、汚れた部分だけ剥いて、生のままいただく。

ひとくち目は上のとんがった部分。

みずみずしくて、夏の空を雲と一緒におろし金で擦ったような甘み。

舌のザラつきで初夏をすりおろす。

そこに芯は見えない。



ふたくち、みくち…………

輪のように拡がる模様も、齧った歯がなぞりあげる。

やはりそこに芯はない。



剥かずに齧れば、剥かずに抉れば芯があるかとも思ったけど、そう簡単にはいかないわよね。


最後のひとくちはちょびっと辛くて、泣いてしまった。



残ったのは、ね。

アイス(冬味)

雪虫が腕にとまってくれました。

正式名称は分かりませんが、そんなものは必要ありません。


止まっているのを眺めるのは初めてのことで、非常に美しい虫でございました。

足にもちゃんと雪のような毛が生えているのです。


雪の降らない季節、場所でも雪を擬似的に楽しませてくれる雪虫たちに感謝を。

降り始めの雨のかおり、土埃を滴にとかす、あのかおりを冬の舌で味わって。



追記:あれ、雪虫じゃなかったかも。(5/10)

アブラキシ

油木市に住みながら、私は本日初めて油木市に来ました。


町を味わうには徒歩の速度が最もよい。

わけのわからないところに刺さっている、合理のかけらもない釘。
無理に建築したのだろう、何重にも重なる階段。
ひとふた世代前から変わらずそこにいるのであろう古本屋。

ここは油木市、私の育つ町。

カムバックトゥ

5月7日。ゴールデンウィーク最終日。

 

ゴールデンウィーク最終日とはいっても、私は特に人と会う用事があるわけでもなく、いつもの日曜日を再現していました。

昼過ぎに起きて、地元のそれほど大きくない神社に参拝して、カフェで本を読んで……。

 

でもなんか今日は特に退屈だなあと、知覚の指が優しくもがれたような、もやの中で踊るような、漠然としたそぐわなさを感じていたの。

 

じわりじわりと初夏を思わせる太陽を感じながら。

人の往来を見ながら。

 

 

でも今日の私は何を思ったか帰りに川に立ち寄ってみようと思ったのでした。

地元には川があります。毎日それを渡って駅まで行くのです。

 

川まで行けば、このつまらなさが紛れると思ったのでした。

 

少し前に雨が降ったところで程よく水があり、でも多すぎず、ところどころ石や砂が山になった部分は歩けるみたいです。

 

川のこちら側では、親子と思しき三人組が飛び石をしています。

おじさんがランニングを、若者がバーベキューをしています。

向こう岸では日向ぼっこをするおじいさん。

 

のどかな日曜日。

 

 

石や土を飛んでとんで、あちらこちらへ移動しいしい、なんだか急に水に触りたくなってきました。

 

水に手をつけ小石に触れます。

同時に違うものにも触れられた気がしました。

 

持参の手ぬぐいで濡れた手を拭いて、メモを一走り。

 

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自然にはゼロ距離で触れなきゃ。

土を触り、水を触り、風を触り、虫を触り、

触覚は帰るためにのこしてあるんだ。

 

小石を触った。

1cm大くらいの小石たち。

手を大きく広げて掬ったり、一粒だけつまんでみたり、なでたり、手を埋めてみたり、

どんなおっぱいよりやわらかく、温かく、抱かれている感覚を。

ここにある。

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「地球とセックス」を大切にしている友達がいました。

今なら彼の気持ちが少しわかる気がします。

 

 

コーベイイマチ

5月2日。兵庫県立美術館に来た。新宮晋さんの作品を見るためだ。もちろんひとり。

たっぷり作品を堪能して、グッズやお土産なんかも買っちゃってちょっといい気分。
新宮晋さんといえば、風の彫刻家って言われるような人で、絶えず動く彫刻を見て、「あ、風って見えるんだ」なんて思ったりして。


このまま帰るのもさみしいと思い、海沿いの階段に腰掛けて一休み。海とはいっても、目の前が埋立て地で高速道路なんかも走っちゃってるから、大きな川を見ている気分。

水面が揺れる。風が見える。



同じ階段の左側に目を向ければ、何かを書いている妙齢の女性、おやつタイムのおじさん。右に目をやればたぶん授業の課題で絵を描いている中高生(知っている、神戸のめっちゃ賢い進学校)、釣りをしているおじいさん。


コーベイイマチ。



絵を描くのに飽きた男の子たちは遊びにいっちゃって、真面目に書き続けている女の子の視線がかすめるのはオブジェの肩。ピッカピカの金属でできたワンピースを着て、同じくピッカピカの金属でできたブーツを履いている。たぶんヤノベケンジさんの作品。

顔は見えないけれど、なんとなく惹かれる気持ちになって、ワンピースの下が見えないかな、なんて男子中高生みたいなことを思うの。

自分よりずっと幼くてずっと賢い中高生がいる前で私は何を思っているんだろう。
彼女たちの絵に、ワンピースを覗き込む大学生が写ってしまう、ああ、でも…。



お願いです、新宮晋さん、今こそ風を吹かせてください。
例の作品の如く。